デッサンは受験のためではありません。絵を描く総人口のうちの受験人口は僅かでしょう。前述の通り、世間一般の絵画人口に比べ、美大受験人口はわずか、独学でプロになる人もいますので、限られた領域に過ぎないはず。デッサンの意義を考える上で、美大受験に言及することが実は偏ったことだと言えます。それでも言及せざるを得ないのはなぜか?

まずデッサンは受験のため、プロを目指す受験生が唯一デッサンをする、と世間で思われているような、デッサン自体が持つ誤解が大きいということです。そして、大学は登竜門として主要であり、受験は避けて通れないからです。ここでシステムが固定化される、だから入試は省みられることが少なかった。最近専門的立場に立つ人が、少なからずそのことに言及していること、就職問題、少子化問題で競争の構図が変化してきたことを理由に、入試内容は今後変化していくようです。ただ、入試システムの問題が大きいのか、デッサンそのものの持つ問題が大きいのか考えたとき、明らかに入試システムの問題の方が大きい。だから受験のためのデッサンになっているのか、基礎を身に付けるためのデッサンになっているのか分別しなければ、デッサンは「狭い」「古い」「役に立たない」と切り捨てられるかもしれません。

受験のためのデッサンとは、予備校でルーティーン化し、受かるためのノウハウを覚えるものです。大学に入ってから、デッサンを勉強する人はまずいない。実は、デッサンのことを深く勉強する機会は、無いのです。デッサンは受験のときだけの、通過儀礼のようなもの、アートから乖離した古いシステムであり、一気に最先端まで駆け抜けないと、大学生活は直に終わってしまうというのが、偽らざる学生の心境でしょう。
デッサンの意義は、既に、不当に低く見積もられているのです。私は、デッサンは基礎としてとても大切なものだと思います。というのも幸運にも、予備校でデッサンに真剣な先生に習えましたから、実感があります。
逆に、アートが対象にしている領域は、遥かに広いものです。受験は偏狭で退屈なものではいけない、というアーティストの批判も正当です。だから予備校⇔大学、デッサン⇔アート、この関係が乖離しているということなのです。

科学の基礎研究に例えると、重要だといえども予算が抑えられたり、華々しい先端研究に比べるとやはり立場が弱い。まして大学など研究施設を離れて、独学でということもなかなか適わない。私がデッサンの意義を訴えるのは、独学の研究者が基礎研究の必要性を訴えているのに近いかもしれません。しかし象牙の塔からは、デッサンの重要さも平等性も世間に訴えようとは思わないでしょう。これは中からは見えない世界だ。予備校⇔大学、デッサン⇔アート、の先に世間一般がある。未だに大きな穴ぼこがたくさん空いている、その関係を取り持つ方がよほど大変です。ここではデッサンは有効ですが、世間一般からのデッサンの意義は、今までのところとても弱い。そうではない、デッサンはもっと広く意味のあることなのですよ、と訴える理由はここにあります。

具体的に言及します。
○デッサンは、基礎、初歩として、絵を描く人々に開かれ親しまれるもので、受験のためだけではない。受験は、デッサンだけで判断するべきではない。
○受験で描くモチーフがつまらないという論点。ルーティーン化するのはもちろん感性教育上よろしくないが、ストイックな環境が資質を磨く場合もある。組織が、効率を最優先させるのが原因ならば、問題あり。
○デッサン自体が古いシステムだと、否定することは出来ない。原始的で、平等なシステム、歴史を潜り抜けてきたシステムだから。
○世間一般とアートの現場の乖離が、実は最大の問題。

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