デッサンがアートの基礎である、ということは一通り説明が出来そうですが、それだけでは上手く説明が出来ない難問が一つあります。それは近現代アートで「描くことがない」アートの一脈があり、そのようなアートにデッサンがどう役立っているか、ということが基礎という言葉ではカバーしきれないことです。

デッサンを、描くという行為を行う肉体的初源、それを先史以来行ってきた歴史的初源と言い換えます。アートが変革、革新を旨とするものならば、デッサンが初源であるほど、引っくり返した場合は革新に見合うものになる。こうなると、この難問を解く筋道が出来ます。近現代アートはそのような歴史的過程を踏んでいるということ、詳しくは美術史家にお譲りします。変革、革新といえば聞こえは穏やかじゃありませんし、それも理性で構築をしてきた民族がどうして?と思うかも知れません。噛み砕くと「描かなくてもいいんじゃないの?」という問いかけを、一緒に考える人がたくさんいて、問題解決の糸口となるかもしれないと思考を進めてきた。そういう人たちが近現代アートを取り巻く社会を形作ってきた、だからアートの存在理由の一つとして「問いかけ=考えるきっかけ」が重要になった。でも普通に考えて「こんなのはどうですか?」「これでいいのですか?」という問いかけをみんなで活発に考える社会は住みやすそうだし、問いかけを誰も聞かないような無関心で、考えることを放棄し自由に考えることを弾圧するような社会は、貧しく寂しいですね。

デッサン(=ドローイング)を知ることは、アートの肉体的初源と歴史的初源を押さえることになる、これは別に目新しい説ではないと思いますが、描くということは思考を含むということが肝です。感性の赴くままにというのが一般的イメージかも知れませんが、この民族は考えることを初源とし、生み出されたデッサンは描画法以上に思考法でもあるのです。その描画法が、非描画法に結びついていったことは、当然の論理帰結と言えるかも知れません。そして問いかけ、考え、更に問い続ける、これは哲学です。これをコミュニケーションとして当たり前に行っている、デッサンと思考法、アートと哲学が分かち難く結びついている、このような社会的背景があります。

初源を押さえなければそれを展開することは出来ない、と論理を裏返すことも出来ます。かつては表現として大きな差異も否定も可能だった、今はどんどん差異が消化吸収され、落ち着きどころも見出しにくい。一つの理由として、直近の情報を意識し過ぎるあまり、歴史を反芻出来ないことがあると思っています。デッサン(=ドローイング)はつまり、どう見るか?どう描くか?どう考えるか?という初源であり、どのように問いかけるか探ることです。人はなぜ描くのか?、初源から繰り返された問いに連なることでもあります。機械を使いこなしている人類はどこまでを肉体と位置付けるのか?、人類は機械化していくのか?という近未来的な問いに対しても、では肉体や精神は何だ?という問いが、定点として歴史的視野を引き付けてくれます。思考基準というものが、混迷を深める時代ほど有難いものなると私は考えます。これがデッサン(=ドローイング)は初源であるとすることが、思考法として幅と深みにつながる理由です。

つまみ過ぎて言葉足らない感満載かと思いますが、長々と書くことはこの場では余り意味が無いと思いました。デッサンは基礎である、という言葉はやや曖昧でした。アートがどのように展開し、どのように人々に受け取られ地域に根差してきたか、その大きな歴史を思う時、デッサンは単に受験のためという解釈だけでなく、職人的技術習得という解釈ですら狭いものです。

※表題について
デッサン=フランス語、ドローイング=英語、共に線を描くという言葉ですが、一般的なイメージはかい離しています。ここではデッサンという言葉がアカデミックで技術的鍛錬という狭義で捉えられることを防ぐため、デッサン(=ドローイング)としました。

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