今回、写実のことを考える示唆を頂きました。投稿者の方に感謝します。

写真、真を写すと書きます。写実、実を写すと書きます。後ろの2文字を繋げると、真実!(すごいですね。)これらの言葉は、意味が込められた「比喩」であることが類推されます。写実、写真、美術を翻訳すると、realism、photograph、artとなります。英語とは成り立ちが全然違うので、これらは翻訳語であることも類推されます。

写実=リアリズムということですが、歴史的に文化の様々な分野で、何何・リアリズムというような運動が起こっています。その運動というものは、何に関してリアルを求めていくか、それぞれの立ち位置と方向性は違うけれども、表面を写すだけをリアルとした運動はありません。「スーパー・リアリズム」という、写真から起こす絵画運動もありましたが、これも表面には止まりません。リアリズムは表面を超えて、その内奥、その他と関係に広がりを持つものだったと言えます。もちろん、面白いもの、美しいものに出会った時、素直に写してみたい!と感じます。美術は、感情が赴くまま描くことを、決して否定するものではありません。しかし、作家がリアルを探し求めることも、自然な成り行きです。その後、少しも止まることなくそれぞれの視点が提示され、歴史上様々なリアリズムが展開していきました。

そっくりに写すことには、制作者としていくつか疑問点があります。まず、写真を超えられるのか?、広がりや深みを持つのか?というもの。次に、たやすくとは言えないけれど「そっくりに写す」技術を身に付けることはある程度可能です。そのような人が一定数増えた段階で、作家としてどう差別化するのか?というもの。制作者は、これらの課題に向き合う限りは、自然に展開していかざるを得ないのでは?と思います。

今、このような動きが起こるのはなぜか?現代に課題があるように思われます。ネットは、個人の興味が主導する世界です。表現は、映像的で表面的です。そっくりに写すことがネットで「受ける」のは、人々の一瞬の興味が決定力を持つからです。逆に、歴史認識や美術教育の問題といった背景が、沈んでしまうことが往々にしてあります。共通の背景を持たない世界は、リアルが細断された世界とも言えるのです。まるで、ネットでは全てがフラットに並列しながら、現実には格差が広がっているように。

結局は当人の選択だとしても、「熱血!デッサン塾」主催者としては、そっくりに写すことが「上がり」ではないことは、お伝えしなければならない。デッサンは思考でもある、と私は主張しています。デッサンは技術のための技術ではなく、その先を実現するための技術であって欲しい。その先とは「作品」、リアルの追求です。いつの時代でも考え、考え抜いてリアルを探り続けてきた、歴史がその証明になっているはずです。

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