[後書き]
受験生の時以来、まともに石膏デッサンをするのは30年ぶりぐらいですから、描けるかな?と思いながらの描写でした。
正直、難しいと思いました。初心者用のビーナス像であっても、簡単ではない。
髪のウェーブなどを描く時は、最初はうんざりしていました。やはり、新鮮で集中できる時期というものがあるようです。
石膏デッサンは、ある意味プロとしての忍耐力を鍛錬するモチーフだったかも知れません。

そして、ビーナス像の作者に勝てる気も、まったくしなかった。なかなかどうして、大した芸術作品です。
そういえは、受験時代、面白いとか素晴らしいとか思って、石膏デッサンをしたことがあったか?とも思いました。
だから私の受験時代というものは、相当バイアスがかかっていて、それほど深くは考えていなかったらしい。
ですから、「なんで今更石膏デッサンなんか描くの?」と作家連中に馬鹿にされるとも思いながらも、
ほとぼりが冷めて石膏デッサンを描いたことは良い機会でした。

かつて東京芸大の入試には通例として石膏デッサンが用いられ、その時代「石膏デッサンの神様」は、石膏像を見ないでもそっくりに描けたそうです。
複雑な石膏像を覚えるまで描いた熱量と時間には頭が下がりますが、随分偏った現象が起きていたようです。
皆さんもお考えになって下さい。
追求することと覚えることの違いは?石膏デッサンは何を目的にしたモチーフか?そもそもデッサンは何を修練するものか?
しかし偏っているといえば、現代もそうかもしれません。石膏デッサンが試験に用いられなくなると、まったく石膏デッサンをしなくなるのですから。

改めて、理解することは大変だなと、思いました。石膏像=ギリシャ神像などは、ヨーロッパの源流を理解することに繋がります。
理解は、現場で汗をかいて想像力で補って、ちょこっとだけ可能になる。
西洋美術を知っているようでいながらも、ヨーロッパ人にしてみれば服だけ、我々は肉も骨も違う。
かといって、我々の日本人のDNAを持ってしても、今や「もののあはれ」は理解からは相当遠い。

何を理解していて、何を持っているのか、どのように将来に繋げるか、それが問題です。
入試制度の偏りはある、常に権威が先に立つ制度やアカデミズム批判はある、しかし上澄みです。
内容を理解しているつもり、持っているつもり、では無いと言い切れるか?ということなのです。
現代は、スーパー・フラット=骨粗鬆症らしいですから。
理解することも、伝えることも難しい、受け取り側の問題もある、と愚痴を言っても仕方がない。
私は、本気です。

石膏デッサンヴィーナス



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